映画「沈黙ーサイレント」が語りかける歴史の持つ悲惨さ

先週の日曜日、大阪梅田の映画館で遠藤周作原作の「沈黙-サイレント」を見た。徳川時代、それまで認められてきて九州地方で広がっていたキリスト教が禁止されたが、それの禁止令に伴う、いわゆるキリシタン狩りの過酷さを描いている。中学や高校の教科書でキリスト信者を見つけるのに「踏み絵」という、キリストを描いた版画のようなものを踏みつけられるかどうかで、信者かそうでないかを見つけると習った覚えがあるが、まさにその時の、様子を描いているのだ。しかし、この過酷さは、言葉で表現できないものだ。やはり、これは映画の持つ、素晴らしさだろう。

 私たちは歴史のひとこまを、あまりに簡単に考えすぎ、見過ごしていたのかもしれない。戦争の悲惨さを話す言葉を、過去の出来事として簡単に見過ごしていたのかもしれない。ある一つの出来事は、人間の生死をかけたうめき声がそこでは発せられたはずだ。しかし、そのうめき声はすぐに消え去る。そして何事もなかったように時間は過ぎ去り、一つの短い言葉として、ある事件としてだけ受け継がれるのかもしれない。

キリシタンのうめき声は、神に届いたのだろうか。いや、神は沈黙し続けた。私たち一人ひとりのうめき声は、神にもどこにも届かないかもしれないが、そう信じた、ということだがけが、いつまでも残り続けるのだろう。戦争で悲惨な死に方をした人も、それは誰にも届いていないかもしれない。ただ、そうした事実があったということだけは、どういうわけか、その子孫に、子供たちに形もなく受け継がれるのだろう。

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