クリント・イーストウッド監督「アメリカン・スナイバー」を見て

クリント・イーストウッド監督の「アメリカン・スナイバー」を大阪難波で見てきた。とても良かった。色々考えさせられるし、緊張感や映画のダイナミックさも併せ持っていたし、話もわかりやすくて、今のまさに日本を始め全世界の最も関心のあるテロ?(あるいは反政府組織?)をテーマにしていたのもいい。この映画を、今の自民党議員や維新の党、それに公明党の人たちに見てもらいたいと思った。それに外務省の人たちもだ。

 この映画を見て、一番に感じたのは、戦争にはそこに投入された人々の個人個人の意味づけが必要だということだ。人に言われたから、ここに来ました、では今の戦争は役に立たないのだろう。戦争への主体性。なぜ、人を殺すのかということ。そのことの意味合いを個人個人がどれほど考えているかと言うこと。今の日本に、戦争の意味合いを語れる人がどれだけいるだろう。なぜ、戦うのか、なぜ、人を殺すのか、なぜ、アメリカの支援をして戦争を推進するのか。そのことを誰が、どれほど語れるだろう。国民が語れるだろうか。この映画を見て、戦争の意味合いを語って欲しい。

 でも、この映画の主人公は戦争へ行く大義が少しもぶれなった。主人公は国のため、と言う強い信念のもと、戦った。それは3・11のテロにより多くのアメリカ人が殺されたことへの愛国心からきたものだ。アメリカ人はアメリカと言う国を誇りに思い、信頼し、愛している。だからこそ、テロに対して戦うのだ。人を守り、国を守るため。そのため、イラクでは、アメリカと敵対する銃を持った子供でも殺す理由が生まれてくるのだ。

 でも、クリント・イーストウッド監督はその戦いを奨励しているわけではない。それは、スナイパーと言う、160人以上狙撃してきた”伝説”と呼ばれる人の、その精神的な悩みとして、あるいは家族間の亀裂を通して、問題提起している。つまり、映画では、戦場の過酷さ厳しさ、”生と死”があまりに近すぎて、家族との電話の語らい中に襲撃に合い、命を落としたり、恋人への指輪の送り物の話中に狙撃されて、大怪我をしたりと、そこは生と死の境界が入り混じっていて、常に死と向き合っていなければならない世界も描いている。この過酷さは、相手側にもいえるだろう。いつなんどきテロリストも、狙撃手に狙撃されるかわからない。戦争とは、それぞれが相手を殺す意味合いをもって、戦う場なのだ。戦場に入れば、そこは死ぬか生きるかだ。そして、その意味合いを確認する場だ。相手を殺す意味合いもなく、殺すことはできない。

 日本の自衛隊員はなぜ、人の敵地に行って、アメリカ軍を支援し、あるいは多国籍軍を支援するのか、一人ひとり考えなければならない。アメリカ軍は、人それぞれ十分考えて、相手を殺しているのだ。それの手助けするからには、アメリカ人の考え方だけではなくて日本人個人の十分な理由が必要だ。人に言われたから、やっていますでは、敵側ら見れば殺人者の幇助だ。それはまさに戦争行為そのものだろう。

 アメリカと日本は戦争や自由・平等・民主主義と言うことにも、ズレガある。アメリカは歴史的にそれらを守る使命を感じている。そのことはアメリカ国民がそうなのだ。それに対して、日本はそうした主義心情はない。国民はそうした使命感を持っていない。そうしたことを守るのではなく、平和な世界を望んでいる。アメリカと一緒のことはできない。

戦争は言葉で言うほど、生易しくはない。この映画を見てそう思った。



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