戦没軍人230万人(日本兵)のうち、戦病死者が50%以上、餓死者が37%以上を占めたという異常さ(読書感想)

先の続きで吉田裕著「日本軍兵士」(1971、中公新書)第1章からアジア・太平洋戦争(日中及び太平洋戦争)での戦没者数310万人の内訳を見てみよう。普通、戦没者というのは敵と戦って戦死した人を考えるが、この戦争ではそう単純な話ではないのだ。日本政府の調べでは、戦没者310万のうち、軍人・軍属は230万人で、外地の一般邦人約30万人、空襲などによる日本国内の死者が約50万人である。

 軍人・軍属230万人の内訳は戦闘による死者と病気による戦病死者を区別する。というのは、軍人だから戦闘によって死んだと思われがちだが、実際は違っていて、この戦争では戦病死者がとても多いのだ。

 1945年11月に第一復員省が作成した資料によれば、1941年の日中戦争(満州を除く)では、年間の戦死者数は1万2499人、戦病死者数は1万2713人で、戦病死者の割合は50.4%だった。米軍と戦ったアジア・太平洋戦争での資料は残されておらず、その具体的な数字は不明だという。しかし、日中戦争以上に過酷であった1941年以降のアジア・太平洋戦争ではこの割合を上回るだろうという。

 部隊史には、自らの調査に基づいて戦没者名簿を掲載し、戦死・戦病死を区別しているものが少数存在している。支那駐屯歩兵第一連隊の部隊史では、日中戦争以降の全戦没者数は2625人で、そのうち1944年以降の戦没者は戦死者533人、戦病死者1475人、合計2008人で、戦病死者の割合は73.5%に上るという。

 戦病死者のうち、餓死者が多いのもこの戦争の特徴ようだ。藤原彰の研究によれば、軍人・軍属の戦没者230万人のうち、栄養失調による餓死者と栄養失調に伴う病気感染による広義の餓死者の合計は140万人でその割合は61%になるとしている。一方、秦郁彦はこの数字は過大だと批判しており、37%という推定餓死率を提示している。しかし、その秦自身も「それにしても、内外の戦史に類を見ない異常な高率であることには変わりはない」と指摘しているという。

 フィリピン防衛戦では1964年の厚生省の調査では51万8000人の陸海軍軍人・軍属が死んだが、海没死を除く陸軍の戦没者について次のように記述している。
「その内訳の正確なデータは資料に乏しいが、巨視的に見ると、その約35~40%が直接戦闘(対ゲリラを含む)によるもので、残り約65~60%は病没であるように思われる。しかも、病没者のうち純然たる悪疫(あくえき)によるものはその半数以下で、その他の主体は悪疫を伴う餓死であったと思わざるをえない。」

このような多数の餓死者を出した最大の原因は、制海・制空権の喪失によって、各地で日本の補給路が寸断され深刻な食糧不足が発生していたからだという。

 栄養失調と疾病が前線では相互に関連していた。佐世保鎮守府第6特別陸戦隊の部隊史では次のように記述している。
「(1944年)4月ごろから急に栄養失調症が増えてき、栄養失調による死者、すなわち餓死者が出始めた。マラリアにかかると40度の高熱が出てそれが1週間ぐらい続く。それで体力が弱まったところへ食糧がなく、極度の栄養失調に陥って、その後は薬も食事も、全然受け付けない状態になって死んでゆく―それが典型的な餓死のコースだった。諸病の根源は食糧不足だった。」

この部隊はソロモン諸島のブーゲンビル島の守備にあたっていたが、1943年末から補給が完全に途絶えていたという。

また、第53師団第二野戦病院付きの軍医として、北ビルマ戦線でマラリアの治療のあたった露木氏によると、「マラリア治療を困難にした第一の要因はマラリアの悪性度はもちろんのこと、それ以上に、この地域前線の日本軍全般に見られた栄養低下にあったと思われる。・・・要するに、当時我々の直面したマラリアは栄養失調者のマラリアであり、その難治性はむしろこの栄養失調状態に帰せられるべきではないか」と記している。

一方、栄養失調と関連して、戦争神経症と呼ぶべき栄養失調症が現れている。1938年4~6月の日中戦争に従事したものの中に、極度の痩せ(やせ)、食欲不振、貧血、慢性下痢などを症状とする患者が多発した。死に至るケースが多かったという。この原因は不明のまま、戦後、精神神経症との関連が疑われるようになった。つまり、食糧などの給養の不足、戦闘による心身の疲労など、戦場の過酷さに起因するストレスや不安、緊張・恐怖などによって体内環境の調節機能が変調をきたし、食欲機能が失われ摂食障害を起こすのだろうとみられている。

海没死

 太平洋戦争では連合軍の航空機や潜水艦により、多数の艦船が沈没したが、海没死とは艦船の沈没に伴う死者を指すという。「太平洋戦争沈没艦船遺体調査大鑑」によれば、海没死者の概数は、海軍軍人・軍属が18万2千人、陸軍軍人・軍属が17万6千人、合計35万8千人に達する。これらの死者は船舶輸送中における戦死であり、実際は溺水死が半ばを占めるという。

 多数の海没死者を出した理由というのは、アメリカ海軍の潜水艦作戦が大きく成功したようなのだ。第二次世界大戦では、米海軍は、52隻の潜水艦を喪失したが、1314隻・500万2000トンの枢軸側商船を撃沈した。潜水艦1隻の喪失で25隻もの商船を撃沈したことになる。それに対して日本海軍の場合、127隻喪失、撃沈が184隻90万トン、1隻の喪失でわずか1.4隻撃沈したに過ぎなかった。

米海軍は1943年半ば過ぎには日本商船の暗号解読に成功した。これによって船団に対する待ち伏せ攻撃が可能になったという。

 一方、多数の兵士が海没死した日本側の要因として挙げられているのが、日本軍の輸送船の大部分が徴用した貨物船であり、船倉を改造した狭い居住区画に多数の兵員を押し込め、そのため沈没の際に全員が脱出することが不可能になったいう。また、次第に船舶不足が深刻化し、一輸送船当たりの人員や物資の搭載量が過重となり、犠牲者を増大させたという。

貨物船の性能も問題だった。輸送船やタンカーは、潜水艦や航空機の攻撃に備えて船団を組み海軍によって護衛される。しかし、船団の中に8ノット(時速約15キロ)という低速の船舶が存在すると、船団全体の速度をその船舶に合わせあるをえなくなる。その結果、「8ノット船団」と呼ばれる低速船団が普通になり、船団護衛がますます困難になったという。

 海没者の戦傷として、圧抵傷と水中爆傷がある。圧抵傷というのは高所から足を下にして地上や固い床などに墜落した際にその衝撃によって引き起こされる損傷を言う。元軍医が圧抵傷について次のように書いている。
「今次の戦争では触雷(機雷・魚雷)による船体の爆破によって、平時のものとは逆に下からの強大な衝撃によって艦上あるいは海中に跳ね飛ばされて、重症な圧抵傷と共に、爆破による爆創、挫創、骨折、熱傷、鼓膜損傷及び内蔵損傷等の単数あるいは複数の損傷が一時に合併するのが常だった」

 次に、水中爆傷というのは、海軍軍医学校の講義では「それは海中に泳いでいる時、爆発に遭遇し、その時は身体の外部には何らの損傷がないのに次第に腹部がはれてきて、腹痛がひどくなり、次第に憔悴して死亡するという恐ろしい戦傷である。」として、その原因はわからなった。しかし、その後「これほど苦しむ患者を見たことがない。腹部の激痛を訴えて号泣している。口からは血痰をはいている」と報告されている。
 そして、その後、その原因が究明された。元海軍軍医佐藤衛は次のように書いている。
「敵潜水艦に撃沈された輸送船の乗員が海上浮流中、味方駆逐艇の対潜爆雷攻撃による水中衝撃で腸管破裂が生じ、すでに腹膜炎を起こしかけた患者を一度に10名あまり収容したことがある。・・・開腹すると驚くべし、全員腸管が数か所破れている。その場所に特徴があり、・・・この特徴から腹壁を介しての衝撃による損傷ではなく、肛門からの水圧が腸内に波及し、内部から腸壁を破ったのだと判る。」

肛門からの衝撃とはなんと恐ろしいことだろう。

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