森昌子が歌う"大正ロマン”を聞く

大正ロマン、ってなんのこっちゃ、と思われるだろう。私もよく知らない。多分、大正時代にロマンチックな雰囲気が出てきたのだろうか。どういうロマンなんだろう。時代は移り変わる。大正と昭和前期、そして戦争後、その後の高度成長期を挟んで平成と、時代は駆け足で変容していく。丁度100年ほど前の大正時代のロマンを振り返るのも楽しいだろう。

 森昌子が歌う大正ロマンは、清澄であり、直線的だ。まさしく18歳のうら若き乙女がその純朴な乙女心を唄っていると感じられる。あるいは単なる過去へのノスタルジックな表現であるかしれない。一方で、森昌子自身にとっては自分の歌手であることのアイデンティティを問う真剣なものだった可能性もある。その歌声はとても力強い。

 大正時代には馴染みのある文人も活躍した。白樺派の志賀直哉や武者小路実篤、芥川龍之介や谷崎潤一郎、詩人では萩原朔太郎や室生犀星など、若いころよく読んだ小説家が活躍した。演劇も盛んなようだった。そういう意味でも文化的な、進取の香りが漂う時代だったのではないだろうか。

  古い歌曲を聞くうえで少しでも参考になればと思い、曲名を中心に、ウィキペディアなどのWEB資料をもとにその背景などを下にコピーした。参考資料名はカッコに記載した。

youtubeから

森昌子 大正ロマンを唄う



森昌子 大正ロマンを唄う(その2)


<資料集>

宵待ち草  (明治43年)竹久27歳の夏、前年話し合って離婚したにもかかわらず、よりを戻した岸たまきと2歳の息子虹之助を伴い、房総方面に避暑旅行する。たまたま当地に来ていた女性、秋田出身の長谷川カタ(賢:当時19歳)に出会う。

 親しく話すうち彼女に心を惹かれ、竹久は呼び出してつかの間の逢瀬を持つ。散歩する二人の姿はしばしば近隣住民にも見られている。しかし結ばれることのないまま、竹久は家族を連れて帰京する。カタも夏休みが終わると成田へ戻り、父親は娘の身を案じ結婚を急がせた。

翌年、再びこの地を訪れた竹久は彼女が嫁いだことを知り、自らの失恋を悟る。この海辺でいくら待ってももう現れることのない女性を想い、悲しみにふけったといわれる。宵を待って花を咲かせる宵待草にこと寄せ、実らぬ恋を憂う気持がこの詩を着想させたのである。 (ウィキペディアより)

 カチューシャの唄 1914年(大正3年)に発表された日本の歌謡曲。楽曲の作詞は島村抱月と相馬御風、作曲は中山晋平。劇団芸術座の第3回目の公演である『復活』の劇中歌として、主演女優の松井須磨子などが歌唱した。また、『復活唱歌』の題名で、松井の歌唱によるレコードが発売された。

 一方、中山はこの作品が作曲者として初めて世に出した作品であった。島村は書生として寄宿していた中山に「学校の唱歌ともならず、西洋の賛美歌ともならず、日本の俗謡とリードの中間のような旋律を考えて欲しい」「誰にでも親しめるもの、日本中がみんなうたえるようなものを作れ」と依頼した。そのようなメロディが思い浮かばずに悩んだ中山であったが、1か月ほど経った頃に詞の合間に「ララ」と合いの手を織り交ぜるアイディアが浮かび、島村の許可を得た上で若干の変更を加えた末に完成させた。( ウィキペディアより)

ゴンドラの唄 1915年(大正4年)に発表された歌謡曲。吉井勇作詞。中山晋平作曲。 芸術座第5回公演『その前夜』の劇中歌として生まれ、松井須磨子らが歌唱、大正時代の日本で流行した。 ( ウィキペディアより)

 劇団・芸術座による日本独自の演出により、ヴェネツィアの船待ちシーンで『ゴンドラの唄』が劇中歌として追加されることとなった。作詞にあたって参考にされたのが、アンデルセンの長編小説『即興詩人』(訳:森鴎外)。その中で、ヴェネツィアへ行く船の水夫が歌っていた舟歌の内容が、『ゴンドラの唄』の歌詞に大きく反映されているという。なお一説には、かつてヴェネツィアで流行していた歌がルーツとする説明もあるようだ。(「世界の民謡・童謡」というwebサイトより)

籠の鳥 デジタル大辞泉の解説1 籠の中の鳥のように、身の自由が束縛されている状態のたとえ。また、そのような境遇の人。籠の中の鳥。2 《1の境遇から》遊女。
「―なる梅川に焦がれて通ふ廓雀(さとすずめ)」〈浄・冥途の飛脚〉

 日本大百科全書(ニッポニカの解説) 流行歌および映画の題名。歌の成立は1922年(大正11)で、千野かおるほか2名の作詞、鳥取春陽(とっとりしゅんよう)作曲とされている。しかし赤沢大助(だいすけ)の告訴もあって、著作権の帰属は明確さを欠く。とにかくこの曲の流行を決定づけたのは、帝国キネマ製作の映画『籠の鳥』(松本英一監督)である。1924年8月に封切られた大阪・芦辺(あしべ)劇場は5週間、東京・遊楽館は4週間の続映となり、後編の好評とも相まって、女優歌川八重子は一躍スターダムにのし上がった。しかし、退廃的な曲調が「国民精神作興ニ関スル詔書」(1923年11月発布)の主旨にもとるため、映画館内で観客の合唱が禁じられたり、歌そのものを禁止したりする動きもあった。[倉田喜弘]

城ヶ島の雨 城ヶ島(じょうがしま)は、神奈川県三浦半島の南端に位置する島。 鎌倉時代以来の景勝地である。漁業、軍事、交通、文学に深く関わってきた多面的な歴史を持っており、大正時代に北原白秋の『城ヶ島の雨』(後述)が評判を呼ぶと、ロマンの島として全国に名を知られるようになった。

詩人北原白秋は、1910年に三崎を初訪、紆余曲折の後の1913年、城ヶ島遊ヶ崎対岸の三崎町向ヶ崎(むこうがさき)にあった異人館に翌年まで住んでいた。三崎居住期にも詩歌をノートに書き溜めており(三崎ノート)、その成果は1915年に歌集『雲母集(きらら集)』として発表している。

『城ヶ島の雨』は、白秋が三崎滞在中の1913年に演出家島村抱月の依頼で作られた。島村は自身の主宰する芸術座の音楽会で発表するオリジナル曲のために白秋に作詞を依頼、作詞後すぐに梁田貞によって曲が付けられ、1913年10月30日、東京有楽座にて梁田自身の独唱(ピアノ:松平信博)で発表された。附曲された白秋の詩としては第一号である。城ヶ島や三崎の風情を詠っており、奥田良三が吹き込んだレコードが全国的にヒットすると、城ヶ島はロマンの島として全国に知られることとなり、憧れを抱いた若い男女が大勢来訪した。( ウィキペディアより)

波浮の港 「波浮の港」(はぶのみなと)は1923年に野口雨情が発表した詞に、中山晋平が作曲した歌曲である。

レコードは1928年5月に佐藤千夜子が日本ビクターから、その2ヶ月後の7月には藤原義江が同じくビクターから高額な赤盤レコードとして発売している。

昭和初期の伊豆大島は、観光とは無縁の離島であった。島の南東部にある波浮港村(はぶみなとむら)は、島の中心部の新島村からも三原山を挟んで反対側にあるわびしい漁村であった。 当時は東京からの船便もなく、雨情は現地には全く行かず、地図さえも確かめずに詩を書いた。このため、歌詞が必ずしも現地の風景に忠実でない部分がある。( ウィキペディアより)

出船 勝田香月は明治32年(1899)、静岡県の沼津町(現在は市)に生まれました。
 18歳のとき、石川啄木を慕い北国に憧れて、北海道から秋田をめぐった際、秋田県の能代港や北海道の小樽港でこの詩の想を得たといわれています。
 この歌は、23歳のとき出版した詩集『心のほころび』に収録されました。歌碑が同市沼津港口公園に建っています。(webサイト「二木紘三のうた物語」より抜粋)


船頭小唄 
1921年(大正10年)1月30日に民謡「枯れすすき」として野口雨情が作詞、同年に中山晋平が作曲した。

1922年(大正11年)に神田春盛堂から詩集「新作小唄」の中で、「枯れ芒」を改題し「船頭小唄」として掲載された。1923年(大正12年)、ヒコーキレコードから女優・中山歌子によって初めて吹き込まれ、その他オリエントレコードから演歌師の鳥取春陽、田辺正行、木津豆千代、ニットーレコードで高橋銀声などが歌った曲。同年、松竹から池田義信監督、主演・岩田祐吉、栗島すみ子で映画化された。

この歌の大流行の最中、関東大震災が起こり、雨情の暗い歌詞、晋平の悲しい曲調から、この地震を予知していた童謡だったのではという説が流布した。 ( ウィキペディアより)



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