「演歌は日本の心、か」?歌は自由で個別的なものだと思う

今日の朝日新聞のオピニオンのページに「演歌は日本の心か」というテーマで、3人の識者の話が出ていた。一人は音階によって演歌を分類し、5音音階が日本人が親しんできた音階だといっている。音階というのは、ドレミファソラシのことで、7音階だが、日本人はこの内、第4音のファと第7音のシを使わない、5音音階を使ってきたという。それは演歌を含む戦前、戦後のヒット曲の多くがそうだったという。その後、グループサウンズや松任谷由美、桑田佳祐らが7音音階をフルに使ったり、さらに半音を付け加えた12音を使って、洋楽並みの複雑な音階で若者を支配したという。

 別の一人は、演歌は70年代前後のたかだか20年余りの興隆期しか持たないもので、当時は反体制的な思想があったという。現在、政治と演歌が接近しているが、今の政治家は体制に寄り添う形で、演歌を歴史的に読み替えようとしているので、その文脈を考える必要があるといっている。

 また、もう一人の人は、伝統という言葉に疑念を発し、演歌を伝統的なものとして捉えるのは、「昔はよかった」式の実態を伴わないことが多い。それはよい記憶や情報だけを合成して理想像を作りやすいやすいから。また、伝統が求められるのは共同体が結束を高める必要が生じたときで、不安定さの裏返しに過ぎないともいっている。文化は危機の時代こそ利用されるので、その点、十分に警戒しないといけないといっている。

 私が森昌子の歌をよく聞くのは、演歌が好きで聞くわけではない。その歌声や声から伝わるやさしさ、穏やかさ、人間性のようなものだ。別の言い方をすれば森昌子の人間性というものが伝わってくるからだ。演歌歌手の五木ひろしや八代亜紀、氷川きよしなどの歌はいいものもあるが特別聞きたいと思わないし、実際聞いていない。

 「演歌は伝統」?私にはわからない。歌は個別的なものだ。歌のメロディーにおいて、音階において共通性があるのかも知れない。歌詞にも共通性があるかも知れない。しかし、そうした時代を彩った歌を一まとめにして、伝統、というとそれは、おかしい。歌というのは個別的なものだというのが私の考えだ。

 個人個人の物語と密接にかかわっているのだ。フォークやグループサウンズや演歌やアイドルやロックやJ-POPなどと、名称にかかわらず、好きな歌を好きなように個人個人の生活と関連して聞くのが、歌というものだと思う。政治がかかわると、歌のもつ自由さが失われ、軍歌のように人々をある方向へ向かわせる危険性がある。演歌を政治と結び付けてはいけないと思う。歌は反戦歌を含め、自由でなければならない。同じように人の生き方も自由でなければならない。それぞれが自由だ。

youtubeから

昨日(5/20)の歌番組で、岩崎良美が「タッチ」を歌っていました。とても若々しくて活動的で、少し色っぽかったです。


森昌子(最近は歌番組でほとんど見かけなくなりましたね。どうしているのでしょう)
寒椿

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック