自民党議員の「長崎平和宣言」批判への疑問

日本では憲法において表現の自由や思想の自由が認められている。だから、ブログでは個人の非難中傷などを除けば、なにを言おうが問題はないだろう。特に、ブログというのは、個人の想いを語る自由帳、あるいは日記に似たものだから、人がとやかく言う筋合いのものではない。

そのことを承知した上で、長崎平和記念式典で、田上長崎市長が集団的自衛権に対し不安や懸念を表明した(長崎平和宣言)ことにに対し、自民党の土屋正忠衆議院議員がブログ上で批判したという。

そのブログを彼のホームページから一部抜粋した。次のようだ。
「・・・長崎市長は歴史的体験を踏まえた核廃絶について語るから権威があるのだ。集団的自衛権云々という具体的政治課題に言及すれば権威が下がる。

核廃絶の祈りではなく、平和を維持するための政治的選択について語りたいなら長崎市長を辞職して国政に出ることだ。」

多分、多くの人はこのニュースを見て、少しおかしいと思ったのではないだろうか。それは、”政治的選択について語りたいなら長崎市長を辞職して国政にでることだ”、というくだりだ。

詳しくは分からないが、個人的には平和記念式典は二度と悲惨な核兵器使用による被爆者が出ないように、そのことを語り継いでいるのではないのか。長崎では「ノー モア ヒバクシャ」「ノー モアー ウォー」が原点のようだ。原爆の投下は、戦争があって起きたことだから、戦争も二度と起こしてはならない、というのが長崎市民の考え方のようだ。

そうだとするなら、これまで日本の防衛のあり方は、専守防衛だったはずだ。外国が攻め込んできたら、それは正当防衛として戦う。でも、集団的自衛権は、そうした専守防衛を逸脱して、アメリカ軍のためや、ペルシャ湾に行って機雷除去の任務も行おうとしている。これでは、誰であっても、アメリカの戦争に加担することになると考えるだろう。アメリアは世界の軍事的な面に全て絡んでいる。アジアでも、中東でも、ウクライナでも。また、今アメリカがいなければ、世界が混乱するだろう。

そうした、アメリカの軍隊と共同歩調をして、日本を守ろうとする考え方だ。長崎市民が「ノー モアーウォー」というとき、戦争を二度と起こして欲しくない、そして同じような過ちを繰り返してほしくないという願いだろう。これは市長が読み上げているが、長崎市民の願いだろう。
長崎市民は政治的選択を語っているのだろうか。集団的自衛権という考え方が、戦争に近い考え方だから、安倍首相に市民の不安と懸念に真摯に向き合って欲しいと言っているのはないのか。

そうした、長崎市民の気持ちを汲みとることが先決だろう。そして、国政に出ることを勧めるのもなんだかおかしい。政治的な選択を語るのは国民の、市民の義務ではないのだろうか。主権は誰にあるのか。日本国憲法では、前文で、「・・・ここに主権が国民に存することを宣言し、・・・」とある。国民主権だ。国民が政治的な事を語るには国会議員でなければらないのだろうか。

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